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郭巨山(後在家町・下小唐崎町)

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由   緒
町有文書「四宮祭礼牽山代記」によると
一、元禄六葵酉年 郭巨山 橋本町
一、享保十五庚戌年 橋本町牽山天井綺麗に替る。
一、明治十九年 橋本町から鍛冶屋町に譲渡されたが、明治二五年後在家町などに譲られ現在に至っている。買却の理由は曳山の保存維持に際し、世帯数が急減したためと伝えられている。

この山は「釜掘山」とも言い、中国二十四孝の一人、郭巨の説話にもとづく山である。郭巨は漢の隆盧の人で、家貧しく、その母が孫を愛して自分の食物を常に分け与えていたが、親思いであった郭巨は母の食物の減るのを憂え、妻に「子は再び産めるが、母は再び得られないから子を地下に埋めて母の食物を減らさぬように」と語り、子を埋めようと地面を掘ったら、掘ること三尺(約1m)にして黄金の釜が出て、それに「天、郭巨に賜う」と文字が刻まれており、官庁の権力者やボスもこれを奪えなかったという伝説である。この話は日本でも近世以後などには広く受入れられ、同じ内容をモチーフにした曳山は京都・祇園祭にもあるし、その他社寺の欄間(らんま)や蟇股(かえるまた)彫刻にもこれからモチーフしたものが見られる。当郭巨山の所望もこれをあらわしている。
山は前後唐破風造り、三輪で、製作年代については元禄六年(1693年)と同資料にあるが、他の山と同じく、古い部材は殆んど伝わらないようである。型通り上下層にわかれ、上層天井は格天井で格間(ごうま)に金箔置の各種の草花彫刻を飾っている。これと同趣のが殺生石山天井の一部にもあり、時代の近いことを思わせる。格天井の各間に彫刻を入れたのは割に少なく、大建築では京都・革堂(こうどう)などに見られるが、多くは絵である。懸魚(けぎよ)は鳳凰、大棟端は鬼板(おにいた)・鳥衾(とりぶすま)付である。欄間彫刻その他の装飾彫刻、飾金具など、他の山と同様、豪華にして精巧な作である。

近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(12)郭 巨 山 滋賀民族学会発行 1976年発行」より抜粋

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