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神功皇后山の概要
大津市教育委員会発表の資料(昭和40年)によれば、この山の由来は「神功皇后が三韓へ行かれる前に、今の長崎県北松浦在の鮎釣り岩で真直な釣針で鮎を釣り上げた時の説話に基く」としており、又この時皇后は懐妊中だったが、同所で後の応神天皇を安産、よって安産の神として市民が信仰しているという。
構造形式 細部等
向唐破風造曳山式、三車輪、両側面軒唐破風付、上、下部に大別、下部は向って左右に通る轅(ながえ)とこれに直交する横木の上に四本柱とこれを水平に連絡する横材および筋違いにより固められた櫓(やぐら)形の部分が主体をなす。上部は下部構造の上に設けられた床、上下を通ずる四本柱(化粧材)とこれにより支えられる屋根からなる。以上の主体構造に高欄、装飾彫刻、同金具、見送り織物、人形などが附加される。
主体構造の各部材は、柄・掛金などで組立てられた後、要処には太い麻縄、細引か幾回もかけられて丈夫にされるが、完全な剛構造でなく、ゆるみのある軟らかな構造である。この点は主要な構造の大体と共に各山に共通した処である。神功皇后山で特に目立つのは上下層を通る柱(上層部では漆塗面取りの化粧柱となる)と櫓部との取付けで、後からの追付(おっつ)け仕事のような処があることである。即ち柱は上方で著しく内転び(内方に傾斜)を付けるが、それが櫓の柱と通り柱とで相違するため、櫓の柱を甚だしく削り、ために貫の効果がきわめて薄くなっていることである。これはどうした事であろうか。上下の構造材を同一人が造ったとすれば、このような不手際は決して起り得ないであろうから、ことによったら上下の作者が別人であったのではなかろうかとも想像される。もしそうだとすれば装飾的要素の多い上部の作者は構造的な造型に弱かったとも言えそうである。これがすこしの程度ならいいが、大分甚だしいからである。
次に上層屋根まわりの主要点を記しておく。柱上四隅は台輪の上に禅宗様(唐様)出三ツ斗を置く。両側面はこの斗栱(ときょう) 間を三等分し、その分点に絵様肘木を二段に重ねた斗栱(絵様大斗肘木)を置き、これと中心を合わせて菖蒲桁(しょうぶげた)を置く。大棟および菖蒲棟上は共に鰭付獅子口、棟は箱棟、その見付板に青海波の透彫を飾る。屋根は柿葺(こけらぶき)を模し、紅褐色漆塗。以上の斗栱(ときょう)間、唐破風下等は動植物其他の彫刻を飾る。
内部天井は四列六行すなわち二十四の格間の格天井、格間には各種の草花、鳥等を極彩色で描く。その一つに「柏園写」の落款があり、筆者が明らかである。
現在の山はその主体構造や装飾彫刻などはさして古いものとは認められず、様式上江戸時代末期のものとそれ以降のものが殆んどと考えられる。資料によれば寛延二年(1749年)とあるが、これはこの山の創始年代であり、その後毎年の巡行などで部分的に新旧相変り、また町衆の合力などによって、より一層立派にというような考えから新らしい装飾が加わったり取換えられたりして現状となったものと推定される。それ等の事情から下層櫓と上層柱との取合せも納まらなくなって、一部削り合わされた結果になったかもしれない。(もしそうなら前述したような構造的部材と装飾的方面の製作者が別々だった結果だろうと考えたのとは違ったことになる。)直接年代を知り得るものの一つは車の保護用の箱で、それには「安政四已九月 吉祥日」とあり、1857年にこの箱ができているから、車そのものはこれに先立つものであろう。いずれにしても全体として江戸時代のすぐれた建築、工芸、彫刻、絵画などの綜合的作品たる事には変りはないと言い得られる。
近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(4)神功皇后山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会発行 1973年発行」より抜粋