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大津市歴史博物館発行 「町人文化の華ー大津祭」大津祭りの発生とその展開 木村至宏氏 を転記
大津祭は、本市の中央部に位置する京町三丁目の天孫(四宮)神社の祭礼である。かつての社名から四宮祭ともよばれていた。そして長浜曳山祭らと並んで湖国三大祭の一つに数えられ、滋賀県無形民俗文化財に指定されている。
祭礼は、毎年体育の日の前々日が宵宮、次の日が本祭である。本祭には13の曳山町から13基の曳山が出され、終日コンチキチンの囃子と見事な「からくり」を演じながら市内を巡行する。いずれも江戸時代に製作された華麗な曳山は、まさに「動く文化財」の様相を呈しているといってよい。
この大津祭がいつごろ始まったかは明確な資料がないが、曳山が祭礼に取り入れられた時期はほぼ確かめられる。すなわち唯一の記録の『四宮祭礼牽山永代伝記』大津祭曳山連盟蔵、以下『伝記』と略す)と寛永12年(1635)の「牽山由来覚書」(西行桜樫山保存金蔵)によって、大津祭の起源は、江戸時代のはじめにあたる慶長〜元和年間(1598〜1624)と考えることができよう。
「牽山由来覚書」は、天孫神社の宮元にあたる鍛冶屋町の年寄が書いたものである。祭礼の原初的形態を知るうえで貴重であり、その概略を現代文で記すと
祭礼当日に鍛冶屋町の塩売(塩屋)治兵衛なる者が、狸の面をか
ぶり踊ったところ、人が集まり賑わったので、2年後に竹からみ
の屋台を作り、木綿を張り、10年あまり昇ぎ歩いていた。治兵衛
老年になり元利8年(1622)から狸の腹鼓をうつ糸からくりを
昇いでいたが、寛永12年から地車を付けて子供衆に曳かせた
というのである。
大正時代の写真
また、『伝記』には「寛永十五年より三つ車を付け候て祗園会鉾形ち(ぎおんえほこがたち)の山を建て、梶取り手、木遣ひを雇ひ、毎年神事に牽き渡し候」とあり、現在の曳山がつくられた原型の年代を推定することができる。
曳山の成立年代を『伝記』によってみると、寛永12年の提出をはじめとして、次に三輪山(堅田町)、狸々山(南保町)、宇治橋姫山(塩屋町)、殺生石山(柳町)、孟宗山(玉屋町)、西王母山(丸屋町)、郭巨山(橋本町)、福聚山(中堀町)、靱猿山(湊町)、龍門滝山(太間町)、源氏山(中京町)、神功皇后山(猟師町)と続き、鳳凰台山(上京町)が安永五年(1776)となっている。およそ141年間に14基が出揃ったことになる。このように各曳山町の曳山誕生は長い歳月を要したが、その問は曳山とともに練物(仮装行列 ねりものと読む)が出ていた。『伝記』の元禄6(1692)の「曳山練物番列」によれば、曳山が8ヶ町、練物が17ヶ町で、合わせて25ヶ町の多くが祭礼に参加していたのである。
曳山の製作とともに、練物が次々と曳山に造り替えられた背景には、曳山町の大津町人の心意気があった。すなわち大津は近世において湖上交通の要衝としての港町と東海道五十三次の宿場町という両機能を備えて発展した都市であった。ここで醸成された豊かな大津町人の経済力と曳山とは無関係ではなかった。さらに京都祇園会にみられるように、能曲にみえる故事を題材にして趣向(風流)をこらした曳山には、当時の大津町人の高い文化性をうかがうことができる。
それらを証明するものとしてからくりと幕類などがあった。からくりは大津祭の特色の一つだ。一般的にからくりは仕掛け装置のあるものの総称であるが、その歴史は古い。すでに京都では応永28年(1142)に、からくり(あやつり)人形が風流踊りに登場している。そのあと日本各地の曳山屋台に進出し、その数は曳山総数166基(山崎構成氏の調査)もあるという。
大津祭の本祭では、からくりが各曳山町や町の辻々約28ヶ所で実演される。五色布の采配棒の合図によって、からくり囃子に替わり、曳山屋台で精緻なからくりが披露される。いずれも曳山の名称にちなんだ所作の巧妙さと発想に富んだものが多く、観る人を楽しませてくれる。
源氏山 見送幕
からくりが、どのような経緯で大津祭に導入されたかは不明だが、室町時代からからくり人形の風流が存在していた京都の影響をうけたことは間違いない。情報をもつ大津町人が江戸時代初期の興行で流行のきざしをみせていたからくりを、いち早く曳山に取り入れ、祭礼の独自性を出そうとしたのではないかと考えられる。細部をみると京都で誕生したからくりが中京方面で発展し、大津祭で完成期を迎え、しかも13基ともにすぐれたからくりが現存していることは、芸能史上注目すべきことだといえよう。いずれにせよこのからくり戯の摂取は、大津町人の自負と進取の精神、さらに文化水準の高さが感じられる。
また、からくりと並んで曳山の装飾も祭礼の大きな見所の1つとなっている。装飾の代表的な幕類には、見送幕、胴幕(胴懸)、水引幕などがある。それらは各曳山町が競って豪華なものを誂えたり購入をした。唐織、朝鮮織など高級な幕類が多い。なかにはベルギーのブリュッセル製の毛綴(重要文化財)が2枚もある。
源氏山 天井画
さらに曳山屋台の屋根裏にあたる天井板の装飾にも町人たちは力を注いだ。ちなみに、当時京都、大津で活躍していた両家の松村景文・長谷川玉峰 ・広瀬柏園などが描いたすばらしい画跡をいまも見ることができる。
いずれにしても曳山を中心とした大津祭は、江戸時代の商業都市・大津町の経済力を背景に発達しか祭礼である。そこには経済を支えた大津町人の進取な精神と文化への強い志向を垣間みることができる。そして、今日まで絶えることなく華麗な大津祭が継承されてきたのは、祭礼を行う人と参加する人および観る人々の強い連帯感によるといっても過言ではないだろう。
(大津市歴史博物館 館長)