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孔明祈水山は孔明山と通称する山で、大津市役所資料によれば最初福聚山と言い、元禄七年(1694年)にできたが、万延元年(1860年)、孔明祈水山と名を変えたという。その由来については、蜀(中国三国志参照)の諸葛孔明が魏の曹操と戦ったとき、流れる水を見て「敵の大軍を押し流す大水を与えてほしい」と祈ったところ、この祈りが通じたのか大洪水が起り、押し寄せた魏の大軍は木の葉のように流れてしまったという故事によると伝える。構造形式は三輪をもつ下、上層及び向唐破風の屋根をもつ型通りの山で、この山の由来が中国に因んでいるので努めて中国風の文様やモチーフを用いようとしたように見える。もっともこのような事はこの山だけでなく、多くの例があり、他の地方の山車を見ても普通だから特異なものとは言い難いであろう。最下に車台、その上が下層(一階)の櫓、上下層を通る四本柱上に唐破風屋根を架けるなど、他と同様である。いまの山の造立年代は元禄当初より遥かに降り、棟木の下端に「享保十一丙午年大門町六兵衛工之」と書かれており、このとき(1726年)棟木を造っており、又棟端の獅子口の裏に五行に亘って次の墨書「明治十一年寅九月」新調」□□師」勧学屋(」は行の変り目、□□のうち一つは塗かもしれないが不詳)がある。即ち享保ごろできたか、大改造したものがのち何回も各部に亘って修理を重ねて来たのが現在の姿であろう。細部様式もそのように認められる。この山は何れかと言えば建築的な装飾が他の山に較べて控え目であると言えるかもしれない。それが多少でも古式を残しているのかもしれない。一番目立つのは後部に立てる障屏(何という名か知らないので、仮にそう呼んでおく。)と、それに続く両側面の高欄と言えよう。いずれも朱漆塗で、雲竜や雲に波に火焔宝珠、唐草文などを浮彫りし、一見堆朱(彫漆の一)を思わせるものである。破風の懸魚は中央桐に鳳凰、両脇は牡丹である。
近藤豊記「大津祭り総合調査報告書(9)孔明祈水山 滋賀民族学会発行 1975年発行」より抜粋