大津絵踊り保存会定期公演にて「出囃子」出演しました。郭巨山・源氏山の演奏でした。
- 日時 平成25年11月16日(土)
- 場所 伝統芸能会館
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大津絵踊り保存会定期公演にて「出囃子」出演しました。郭巨山・源氏山の演奏でした。
京都新聞より転記
湖国三大祭りの一つ、大津祭(大津市)で、曳山(ひきやま)の郭巨山(かっきょやま)の後部に飾られる見送り幕「牡丹(ぼたん)に唐獅子図」が復元新調され、15日に地元住民に初披露された。大津祭は、曳山巡行順を決める「くじ取り式」が16日に行われ、1カ月間の祭礼行事がいよいよ幕を開ける。
見送り幕は、ボタンの咲く山中でたわむれる雄雌2頭の唐獅子の図柄を織り出している。獅子の頭部や胴体には金箔(きんぱく)も織り込まれ、絢爛(けんらん)さを醸している。
従来の幕は江戸中期の18世紀の作で傷みや退色が激しかったため、郭巨山保存会などが川島織物セルコン(京都市)に依頼し、同じ図柄で新調した。当初の色合いも慎重に分析し、よみがえらせた。縦182センチ、横145センチ。事業費は約1千万円。地元の後在家町と下小唐崎町の約40世帯で負担する。
同会の梅村正司会長(48)は「町内の皆さんの山への愛情があってこそ復元新調できた。祭り当日に掲げるのが楽しみ」と話した。
大津祭は県庁近くの天孫神社の祭礼で13基の曳山が繰り出す。16日午前9時半から同神社でくじ取り式があり、今年は10月7日に曳山巡行のある本祭がある。
由 緒
町有文書「四宮祭礼牽山代記」によると
一、元禄六葵酉年 郭巨山 橋本町
一、享保十五庚戌年 橋本町牽山天井綺麗に替る。
一、明治十九年 橋本町から鍛冶屋町に譲渡されたが、明治二五年後在家町などに譲られ現在に至っている。買却の理由は曳山の保存維持に際し、世帯数が急減したためと伝えられている。
この山は「釜掘山」とも言い、中国二十四孝の一人、郭巨の説話にもとづく山である。郭巨は漢の隆盧の人で、家貧しく、その母が孫を愛して自分の食物を常に分け与えていたが、親思いであった郭巨は母の食物の減るのを憂え、妻に「子は再び産めるが、母は再び得られないから子を地下に埋めて母の食物を減らさぬように」と語り、子を埋めようと地面を掘ったら、掘ること三尺(約1m)にして黄金の釜が出て、それに「天、郭巨に賜う」と文字が刻まれており、官庁の権力者やボスもこれを奪えなかったという伝説である。この話は日本でも近世以後などには広く受入れられ、同じ内容をモチーフにした曳山は京都・祇園祭にもあるし、その他社寺の欄間(らんま)や蟇股(かえるまた)彫刻にもこれからモチーフしたものが見られる。当郭巨山の所望もこれをあらわしている。
山は前後唐破風造り、三輪で、製作年代については元禄六年(1693年)と同資料にあるが、他の山と同じく、古い部材は殆んど伝わらないようである。型通り上下層にわかれ、上層天井は格天井で格間(ごうま)に金箔置の各種の草花彫刻を飾っている。これと同趣のが殺生石山天井の一部にもあり、時代の近いことを思わせる。格天井の各間に彫刻を入れたのは割に少なく、大建築では京都・革堂(こうどう)などに見られるが、多くは絵である。懸魚(けぎよ)は鳳凰、大棟端は鬼板(おにいた)・鳥衾(とりぶすま)付である。欄間彫刻その他の装飾彫刻、飾金具など、他の山と同様、豪華にして精巧な作である。
近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(12)郭 巨 山 滋賀民族学会発行 1976年発行」より抜粋
所 望
郭巨の妻が童児を両手にいだいて二層上手床に立っている。後方に左手に鍬を持った郭巨が立っている。所望囃子(しょもうばやし)で郭巨が鍬(すき)を上げて地面におろして掘る。地面の高い所を掘ると黄金の釜が出現するという所望である。これは中国廿四孝の一挿話のわが子をうめ母を養う親孝行心を写したものである。即ち子は生めるが母は二度と得られない。極貧のため母を養えぬ郭巨は妻と相談して我が子が三才になったとき、子をうめて口をへらし母を養うため、地面を掘り下げたところ、地中から黄金の釜を掘り当て、中に紙片があり「天が汝の孝心をめでてこの釜を与える」と記るされていた。
人形構造
郭巨の衣装は1950年頃に京都市中京区烏丸大通り北入る、荒木伊助御装束調達所に注文し脱着式をやめ、祈水山と同様に着装のまま納入箱に入れることにしている。そのため心柱と首と手以外は露出していない。鍬を両手で持ち、これをあげる引栓が腰の中央についているので、両腕の仕様は容易に想像できる。妻の衣装にかくれている胴の仕組も童児と同様にはっきりしないが、妻の方の心柱が新しいので衣装だけ新規にしたのでなく、胴の仕組から新規に作り替えていると思える。但し、童児だけは抱き人形風になっているので旧態のまま百年以前に作り替えたものであろう。
京都市下京区四条通西洞院から曳き出されている郭巨山には郭巨と童子が立っている。人形は寛政期の人形細工師京都の金勝亭九右工門利恭の秀作である。大津の郭巨は三体の人形が立ち、鍬で掘る身振と釜が出現するからくりを仕組んでいることと妻が立っている。大津の郭巨の面貌を注視すると、地面から黄金の釜が出現してびっくり仰天し、眼をむき唇はふるえている。玉眼でないことが幸いして、一層その表情にドラマチックな物語が浮き彫りされている。郭巨の切実な感情と妻の美しさが不思議な雰囲気を作り出している。印象深い秀作である。いずれ名のある京都の人形師の作品であろう。
山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(12)郭 巨 山 滋賀民族学会発行 1976年発行」より抜粋
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