月宮殿山の概要
月宮殿山、鶴亀山とも呼ばれるこの山は能楽「鶴亀」に因んで名付けられたという。これについては『日本百科大辞典七』(大正5年3月三省堂)によれば「唐土の皇帝不老門に出御あり、壮厳華麗を極めたる庭上に青陽(春の光)の節会を行はる。さて佳例により月宮殿にて鶴亀の舞を奏せしめられ、御感の余りに皇帝も舞楽をなして世を寿かせらる」とあり、山の名はこれに由来している。(大津市役所の資料も上記辞典に拠る)。もと鳳凰台といい、寛政三年(1791年)に「月宮殿山」としたという。市役所資料では今の山は安永五年(1776年)の作とある。
構造形式、細部等
向(むこう)唐破風造(正面唐破風(からはふ))、曳山式、三車輪、上・下層に大別され、下層櫓は四本柱と上下の貫および筋違で固められ、上層柱は下層櫓下部から立ち、内転びをもつ。この柱は黒漆塗、唐戸面(からどめん)を取り、後方は金具を打たないが、正面の二本は透彫(すかしぼり)の藤文様金具を飾る。柱頭組物は三斗(みつど)。
装飾面で最も注意されるのは上層高欄まわりと後部障屏の金具、唐破風部分と頭貫(かしらぬき)上部の牡丹に獅子の彫刻、それに天井における星宿文様である。この中で一番目立つのは極度にまで発達した牡丹彫刻で、唐破風に付けた懸魚(げぎょ)のそれは発達の頂点まで行ったものと言えよう。全体金箔置きで極めて華麗である。
次に高欄まわりでは親柱の宝珠が特異である。大きい水晶(と思われるが)の珠の外に波が踊り、その下も波文で意匠された類例なきものであり、平桁(ひらげた)・地覆(じふく)間には竜を入れ、上の水波と対応させている。
天井は折上格天井、折上部の裏板に雲、格天井の裏板には各格間(ごうま)に星宿(星座。昔、中国で二十八宿に分けた星座)を入れる。(補足:月宮殿山は三十二宿あり、中国の星宿と一致しないものもある。) 星宿は1973年高松塚古墳壁画で騒がれたが、江戸末期にも時おり使われ、京都祇園祭・長刀鉾(なぎなたぽこ)の天井にも見出される。よって月宮殿山と長刀鉾(祇園祭)との間に何かがあったと想像される。
現在の月宮殿山の造建年代は確実な資料をまだ見ていないが、装飾部材を入れる箱などに何かあるかもしれない。安永5年(1776年)の作というが、様式から見れば、その頃を最古として以後次第に各部分が整備されたものであろう。いずれにしても大津祭曳山の中で注目される山の一つである。
伊勢松坂三井家(補足:現在は京都三井本店と考えられている)所蔵品を購入した見送りのゴブラン織は売り渡し証文とともに昭和24年重要文化財として国の指定を受けている。
近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(7)月宮殿山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会発行 1974年発行」より抜粋
鶴亀の所望
唐土の皇帝が不老門に出て、春陽の節会に月宮殿で「鶴亀」の舞を所望し、皇帝も興に入り、舞に合せて謡う様をうつしたものと口伝されている。
中央奥に玉冠をつけた唐土の皇帝が控えている。一段低い所の上手に亀の冠をつけた男児の舞人と下手に鶴の冠をつけた女児の舞子が相対して立っている。
鶴亀の所望囃しが始まる。太鼓がツクツクツテンテンと叩かれ終るのを合図に笛がホーヒヤーイ、ホーヒヤーヒーヒヤイ、ホーホーに合せてまづ鶴亀正面に向って静かに両手を上げる。亀は右へ鶴は左へ静かにまわる(まわりながら扇をひろげる)。
向き合って静かに両手をおろす。再び両手をあげる。亀は左へ、鶴は右へまわり、正面むきになる。つぎ両手をあげたまま、亀は右まわり、鶴は左へまわり、正面向きになる。(あげていた両手をおろす)。
また舞人は両手をあげ、亀は左へ、鶴は右へまわり正面向きとなり(しばらくとまり)、サッと両手をおろす。
舞の間、笛と太鼓で囃されるが鉦は入らない。所望を要する時間約40~50秒である。
筆者の手元にある鶴亀(観世流仕舞形附)を見ると人形の舞振りに似たところが多いので、おそらく発想の当初は「サシ分」があったのではないかと思われる。人形の両手は今では一本に結んで同時に遣われているが、これは左右の手を別々に遺うのが本義で「サシ分」が簡単にできる。明治以降にこの様に一本遺いに略式化されたのであろうと思われる。(補足:平成16年から、腕の結びを解き左右別々に遺う本来の形に戻している。)
鶴亀の能舞の戯
人形の身振りの仕組みが極端に簡素なため表現にも当然限界があり単純なものであろうと推っていると、見事に裏切られてしまった。写真でわかるように、左右の腕を上げただけで、これ程立派にきまったポーズになるとは期待していなかった。人形が能風な身振りを創造してゆくための必要とする機能的条件と限度が、限界ぎりぎりの線で妥協した仕掛けである。それは曳山での人形操作のための空間は極端に狭められ、舞人は向きをかえ、扇を開閉できるだけで、位置をかえることも許されない。この狭い空間で動作しなければならない身振表現の限界がある。
にもかかわらず、この鶴亀の舞は真に恰好よく、美事である。不自然なところはない。この不可思議な美はどうして生れるのであろうか。想うに発想の当初の人形作者や町方の注文によって出来たものであろうか。それとも町方の能や仕舞の愛好家とその後継者が創造し続け、完成して行ったのであろうか。重要なことは人形の両肘に関節をつけないこと、肘を横に張ってポーズを鉄串で作ったことで衣裳を着せるとポーズが決まってくる。関節をつけない人形は生人形や舁山の飾人形に多い。この方法を利用したといえよう。
これが能風な様式化された表現に適している。からくり人形研究者から見れば、表現の限界を追求することで、人形の内部機能をどこまで簡易化することができるかというテーマに答えていると思う。月宮殿の例はからくり人身振表現機能の一つの新しい教示を与えたといえる。
元よりこの能ぶりが完成するまで種々曲節があったことであろう。とかく奉納芸が無頓着にされがちな中で、月宮殿のこうした豊かな雅趣を他の曳山芸能にも是非共波及してほしい所である。月宮殿山の他に無類の特異な存在を高く評価したいと思うのである。余事ながら月宮殿の名は小供狂言山で有名な長浜市の田町組にもある。囃子方の古型を伝える田町組の曳山の発祥は舞台と楽屋は棟礼によると天明五年とある。両町の時代が接近しているが、最近の調査ではあるが特別な関係はないということである。
山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(7)月宮殿山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会発行 1974年発行」より抜粋
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