13基の曳山

西行桜狸山

西行桜狸山 (さいぎょうざくら たぬきやま)

 鍛冶屋町   寛永12年(1635)創建


俗に狸山といい、塩屋治兵衛の狸面の伝承を持ちますが、明暦2年に西行法師が桜の精(仙人)と問答を交わす熊を現した人形を用いるようになって、その名を西行桜狸山と改めました。
狸は、屋上に載せられて、祭の先導ととも守護とも見られるようになり、祭日の天気を守ることになりました。これにちなんで、この山は毎年くじとらずで、先頭を巡行します。
所望は、花の中から仙人が現れて、西行法師と問答します。

猩々山

猩々山 (しょうじょうやま)

 南保町   寛永14年(1637)創建


能楽の「猩々」から考案したもので、むかし、唐の国の揚子の里に住む高風という親孝行なものがいました。ある夜、夢に「揚子の町に出て酒を売れ」と教えられ、売っていたら、海中に住む猩々から酌めども尽きず、飲めども味の変わらない酒の壺を与えられたといいます。
所望は、高風の酌で、猩々が大盃で酒を飲むところを現しています。

西王母山

西王母山 (せいおうぼざん)

 丸屋町   明暦2年(1656)創建


むかし、崑崙山(こんろんさん)住む、西王母が天女とともに舞い下って、君に桃の実を捧げ長寿を賀しました。この桃は三千年に一度、花が咲き、一個しか実らない貴いものでした。
その後、これに桃太郎の説話を加味したものといわれています。俗に「桃山」と呼ばれています。 所望は、桃が二つに割れ、その中から童子が生まれます。

神功皇后山

神功皇后山 (じんぐうこうごうやま)

 猟師町   寛延2年(1749)創建


神宮皇后が戦に先立ち、肥前国松浦で鮎を釣り、戦勝を占ったとされる伝説にちなみます。なお、神宮皇后は当時懐妊されていましたが、戦が終わって後、九州の地で応神天皇を無事出産されたことから、この山は、「安産の山」として信仰されています。
所望は、皇后が岩に弓で字を書く所作をすると、次々と文字が現れてくるからくりで、江戸時代の文字書きからくりとしては、斬新な機構とされています。

月宮殿山

月宮殿山 (げっきゅうでんざん)

 上京町   安永5年(1776)創建


謡曲の鶴亀(喜多流では月宮殿)にちなんだもので、唐の皇帝が不老門に立って、美しく立派な前庭で春を祝う会を催され、世を寿がれました。俗に「鶴亀山」とも呼んでいます。
所望は、頭上に鶴と亀の冠りをつけた男女の舞人が皇帝の前で舞うところ。
見送り幕は、トロイ落城の情景を現したゴブラン織りで、国の重要文化財です。平成11年10月に新調されました。

郭巨山

郭巨山 (かっきょやま)

 後在家町・下小唐崎町   元禄6年(1693)創建


俗に「釜堀山」ともいいます。中国二十四孝の一人郭巨は、家が貧しくて老母を養うのがやっとでありました。子供が生まれましたが、老母は自分の食を減らして孫に与えねばなりませんでした。
「子供はまた得られる。母は再び得ることはできない。」郭巨は妻と相談し、子供を土中に埋めようと穴を掘ったとき、そこから黄金の釜が出てきたという故事によります。
所望は、郭巨がくわで穴を掘り、黄金の釜を掘り出すところです。

西宮蛭子山

西宮蛭子山 (にしのみやえびすやま)

 白玉町   万治元年(1658)創建


古くから西宮の蛭子様を出して飾り、祀っていましたが、後に曳山に載せるようになりました。鯛を釣り上げたえびすさんに商売繁盛を祈るといいます。
所望は、えびすさんが鯛を釣り上げる所作。 この所作から俗に「鯛釣山」と呼ばれています。この曳山が作られた頃は、宇治橋姫山と称していましたが、延宝年間以後、いまの西宮蛭子山に変えられたといわれています。

龍門滝山

龍門滝山 (りゅうもんたきやま)

 太間町   享保2年(1717)創建


黄河の上流の竜門山の滝は、どんな魚も上がれないが、もし上がる魚があれば、直ちに昇天して龍になるという故事にちなみます。登竜門という語もここからでました。
所望は、龍門の滝を鯉が躍り上がるところを見せます。鯉のからくりは宝暦12年(1762)在銘でわが国最古のものです。 俗に「鯉山」ともいいます。見送り幕「トロイアの陥落図」は、ゴブラン織りで国の重要文化財に指定されています。

殺生石山

殺生石山 (せっしょうせきざん)

柳町   延宝元年(1673)創建


能楽の殺生石から考案したもので、鳥羽院に寵愛された玉藻前(たまものまえ)は、実は、金毛丸尾の狐で帝の生命を奪おうとしていたのを安部泰親に見破られ、東国に逃れ、那須の殺生石となって旅人を悩ましていましたが、玄翁和尚の法力によって成仏したといいます。
所望は玄翁和尚法力によって石が二つに割れ、玉藻前の女官姿の顔が狐に変わるところを見せます。別名「玄翁山」といいます。

源氏山

源氏山 (げんじやま)

中京町   享保3年(1718)創建


紫式部が石山寺において「源氏物語」を書いた伝承にちなんだもの。そのため、紫式部の十二単や、曳山全体が、平安の昔を偲ばせる造りとなっています。
所望は石山をかたどった岩の中から、潮汲み馬、御所車、かさ持ち、木履持ちなどが現れては消えていきます。回り舞台の原型であるといわれており、現存するものでは、全国で二番目に古いものです。 俗に「紫式部山」とも呼ばれます。

湯立山

湯立山 (ゆたてやま)

玉屋町   寛文3年(1663)創建


天孫神社の湯立ての神事は、この山が捧げるといい、山の形は天孫神社をかたどり、廻りはその回廊を真似ています。
所望は、祢宜(ねぎ)がお祓いをし、市殿(いちどの)が笹で湯を奉り、巫女が神楽を奏します。この所作から、「おちゃんぽ山」の愛称があります。昔から、この湯をかけられたものは、五穀豊穣、病気平穏、商売繁盛など縁起がよいといいます。
最初は孟宗山といっていましたが、寛文年間にいまの名称となりました。

孔明祈水山

孔明祈水山 (こうめいきすいざん)

中堀町   元禄7年(1694)創建


蜀の諸葛孔明が、魏の曽操と戦ったとき、流れる水を見て「敵の大軍を押し流してください」と水神に祈り、大勝をした故事によります。 山は万延元年まで福聚山といいました。また俗に「祈水山」ともいいます。
所望は孔明が扇を開いて水を招くと、水が湧き上がり、流れ落ちる仕掛けです。

石橋山

石橋山(しゃっきょうざん)

湊町   宝永2年(1705)創建


謡曲の石橋にもとづいたもので、大江定基入道寂昭が宋の国に渡り、天呂山に入って、文殊菩薩の浄土と伝えられている険しい石の橋を渡ろうとしたとき、獅子が現れて、牡丹の花に舞い戯れるのを見ました。牡丹に狂う唐獅子で有名。
石橋山は最初、「靭猿山(うつぼざるやま)」といっていましたが、延享年間から今の石橋山に変わりました。
所望は天呂山の岩石の中から唐獅子が出てきて牡丹の花に戯れ遊び、また岩の中にかくれます。

神楽山

神楽山(かぐらやま)

堅田町   寛永14年(1637)創建


三輪明神と市殿(いちどの)、祢宜(ねぎ)、飛屋(とびや)の四体が曳山に飾られ巡行していましたが、明治5年(1872)の巡行を最後に登場しなくなりました。からくりは、市殿、祢宜、飛屋の三体で、太鼓や鉦をたたき、鈴を振りながら、御神楽を舞っていたといいます。
現在は、人形と見送り幕、胴幕が町内で管理され、祭の両日、町内に飾られています。

布袋

布袋(ほてい)

新町   元禄6年(1693)創建


元禄6年の当時は、趣向を凝らした「ねりもの」17ヵ町と曳山8ヵ町が巡行していたといい、ねりものは造り物による仮装行列、または山車の類をいいます。明治5年(1872)には、ねりものの巡行はなくなりました。
「布袋」は張り子作りで、頭と胴の張り子のものは、他県にはないので、恐らく全国的に唯一のものであると考えられています。現在、大津祭のねりものとして残る唯一のもので、唐子とともに、祭の両日、町内に飾られています。布袋の納箱には、文化7年(1810)の墨書があります。